【震災遺構】風化させてはならない、防災を自分ごととして学べる場、震災遺構・中浜小学校

こんにちは。東北・宮城在住ライターのすずき・ちえです。

2022年の秋に、宮城県南部に行ってきました。
向かったのは沿岸部にある山元町です。震災遺構・中浜小学校を見学しました。

その時、見学の様子をブログに書こうとしたのですが、言葉が出ずにいました。
3月11日を前に、その時のことを書いてみました。

※次の見出しから、津波の痕跡が残った写真を掲載しております。(撮影可能部分のみ)閲覧にはご注意下さい。

山元町震災遺構・中浜小学校へ

今回訪れたのは、宮城県の沿岸部最南端にある「山元町震災遺構 中浜小学校」です。

東日本大震災前まで、海のすぐそばにあった学校でした。
震災では大津波に襲われ、児童・教職員等90名全員は屋上に避難。3月なのに雪が舞うほどの寒い夜を凌ぎ、翌朝救助されたことは、報道で知っていたものの、どのような状況でだったのか詳しいことは知りませんでした。

入口。施設は2020年にグッドデザイン賞を受賞している。

校舎の2階部分に至った波の高さに信じられなかった

かつて昇降口があった施設入口に向かうと早速、ボランティアスタッフの女性が話しかけてくれました。
そして、校舎の屋上に近い高さにある看板を指しながら「あの高さまで浸水したんですよ」と言います。

浸水域を示す青い看板(校舎右上)。

何と、2階建ての校舎の天井のすぐ下まで浸水したとは……
思わず「あの高さまで!」と驚いていると、「あそこまで約10メートルです。校舎が8メートルと建設時に2メートルかさ上げをしているのです」という答えが。

かさ上げをしたのは、1989年に新校舎を建てた時のこと。高潮被害を受けやすい地質のため、地域からの強い要望で実現したそうです。

校舎を見上げながらも、10メートルもの高さに浸水したという実感がわきませんでしたし、かさ上げをしていなかったら……と思うと恐ろしい気持ちになりました。

校舎内と屋上を見学

ボランティアの女性とお話した後、旧校舎に入りました。
かつての昇降口から中に一歩足を踏み入れます。

順路に沿って見学しながら、目に飛び込んできた光景に衝撃を受けました。

「多目的ホール」。今まで、学習机の脚が押し曲げられるところを想像したことがなく、改めて津波の威力を実感させられた。
卒業制作もこの状態に…。特別教室には当時、児童が使っていた教科書のページが開かれたままになっていた。

1階は当時の状態が保存されています。
特別教室では、当時の児童が使っていた教科書がページが開かれたまま、無造作に置かれていました。
その時の切羽詰まった状況が伝わってきましたし、自然の威力をまざまざと見せつけられたような思いでした。

続いて、2階に上がりました。
まずは音楽室だった部屋で、映像を見ました。
学校関係者や地域住民が当時の体験を話したものです。

そして、映像を見た後は、屋上へ行きました。
児童・教員・保護者90人が避難し、救助までの一夜を明かした場所です。

屋上へはボランティアガイドの方が付き、解説をして下さります。
2階から屋上へ続く急な階段を上りました。

震災遺構・中浜小学校より太平洋をのぞむ。

屋上からは太平洋が見えます。
雲一つない秋晴れの日で、穏やかな大海原が広がっていました。
ガイドボランティアの方が、「あのあたりで水しぶきが上がり……」など、あの日の状況を詳しく説明して下さるのですが、実感がわかずにいました。

次に見学したのは、屋根裏倉庫です。
実際に救助が来るまでの一晩を過ごしたという場所です。

そちらも1階と同じように、当時のまま保存されていました。
もともと、運動会や学習発表会といった行事で使うものを保管する場所だったそうです。
床には隙間なく段ボールが敷き詰められ、毛布や幕のようなものもありました。
この場にあるもので寒さをしのいでいたことがうかがえました。

中浜小学校は、指定避難所の中学校まで子どもの足で徒歩20分かかることから屋上避難を決断したそうです。
90名の命を懸けた決断をされた校長先生の心中を思うと、何とも言えないような気持になりました。


東日本大震災から10年以上が経過しました。
震災を体験していない世代も年々増え、震災を経験した私自身も記憶が薄れてくることに気づかされることがあります。

なので、震災遺構に足を運んだことで、「災害時にどのように行動するか」を考えるなど、防災意識を持ち続けるようにしたいと思いました。

震災遺構 中浜小学校

中浜小学校について(山元町HP)

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